いつのまにか

いつのまにか75歳になっていて、重いものを持てなくなっていた。そう書いてあった。思うように動かなくなった手でていねいにペンを運ぶ音が聴こえる字。それは、知らない誰かの時間。時間は、その体であり、このわたしの体でもあるんだろうか。緩んだ空気のなかを跳ねまわる微細な雨粒みたいな死の気配。すべての境界を残らず湿らせ、樹雨みたいに滴る。腕時計をみるように手のひらを確かめた。あとどれくらいの時間、ここにとどめておけるだろう。明日になったら、オーロラに吠えるマラミュートになって粉雪の上を駆けまわりたい。なにも持たず、お腹を空かせ、切れた息は空にかえして、そうしているうち、響く口笛に反射する、体だけになる。脊髄で折り返した興奮を使いきるまでとまらずに、走りつづける脚になる。そして冷たい肉球を舐め、陽の下に休むんだ。手をのばせばいつでも届いたあの人の手はどうしてかもうない。これから生きていくとして、と考えて、やめた。もう夜になっていたし、この上ないほどひとりきりだったから。