「背徳感でしょう」継ぐ息に圧されこぼれる言葉を憎んだ、吐きすてる前のガムみたいなその言葉を、だから肚の底から憎めたんだ。そして、0.1秒後に愛した。「愛したっていうのは、どうでもよくなったのと似ているよ」


腹の上で見上げた小さな海には濃い密度の闇がぼやぼやと寄せて返している。視力を失った気がして怖くなったわたしは小さく声をあげて溺れるふりをしてそれから浮き輪みたいな言葉をちょうだいと言うと、愛してなんかやらない、と口の端を完ぺきなやりかたで曲げた。「予定調和は、あなた、思考の外を見ようとしないから」


そしてひとつ、ひとつ、悪の種を蒔く。罪悪感のために生まれて死んでいくようなわたしたちの、あの目を見た?どうせ愛のまま死んで生まれるわたしたちの、あの目よ。「罪悪感に罪悪感!エゴが安心している、これでつかのま誰かの正義に陶酔できるものな」わたしたちは綻んだ互いの輪郭をなぞって、これは理想的な理想だとよろこびさえした。


種は芽ぶくし花はさそう。


「悪に悪意はないよ」

冷たい夜の警固公園

冷たい夜の警固公園では透明すぎないいまだけがスケートリンクのように凍り、狭くなった視界のすべてをあの人のくちびるや目やあたたかい手のひらが占めた。あの人はそこにいて、そしてまだここにいるけれど、その欲の安らかさや、体に食い込んだ劣等感を、抱いてほしいままにわたしかもしれない誰かを抱く。地に足のついた欲望の真っ赤に血のかようさまを食い入るように見詰めたわたしは、ただの悦びを知った。細胞の一つひとつを見張られている。それは振動。春に芽吹く枝のように細かく震え、満ちている。満ちて、満ちてあふれる小さな芽は悦び、悦びのための、悦び、とても現実。表現されていないリアルさに舌を這わせて目を合わせて完ぺきにはりめぐらされた興奮が、こぼれおちる、掬う、その優しくて意地悪な声が好き。ひどく、ふたり。抱きしめた体は抱きしめただけきちんとそこにあって、生きていて、すこしの濁りを目印にして混ざりあう。近くて、遠くて、ああわたしは、あなたを知っていたよといまだけの世界を集めて記憶を引きのばした。どこへゆこう。どこへも。

あめふりの夜

時間がただここにあるような気がして、したくもないことをしてみる。「ねえ、みて」爪を切りそろえてプールのような水色のマニキュアをぬり終えたわたしに、ゆっくりと向きなおり、「死にかけの妖精みたい」と言う。北風と太陽の北風になったつもりで乱暴に息を吹きかけながら、爪を庇ってリモコンをつまむ。テレビをつけて、消して、睫毛が湿って重いから目を閉じた。マンションの灯りが緑色にみえるのはどうして。「ねえ、どうして」水音は完璧な色であたりを満たしていて、もうどんな音も加えられない。わたしは黙った。からだの水と雨は寄り添って、流れて、やがて細い川になる。空が光って、鳴る。大きな手が頭を撫で、思いだしたように頬をつねった。わたしはとろりとしていつまでも乾かない爪の上に溺れるあるあめふりの夜。

夏になりたい

すべての夏休みを内包して風は凪ぐ夕方、昼には殺意を覚えたような蝉の声に泣く。日は高く、見えなくなっていっそうその存在感を増す。蒸された草や土や体は夜に溶けて流れて、流れて。悲しみもよろこびも滲んでいっしょくたになるような高揚を、ただしく使いきって更ける夏の日。藺草の甘いにおいに満たされた夜気は青く迫りくる、遊ぶ。つくつくほうしつくつくつく。夏の朝日はカーテンの隙間を好む。一瞬ひんやりして熱くなる汗ばんだ肌。細めた目に焼きついた残像をぼんやり追いかけて、そこらじゅうにあふれる光の重さを全身に感じる。「なかもそともおんなじくらいの熱さだからどこまでも体が、ひろがっている、錯覚をおこしそう」巨大な塔みたいにそびえ立つ濃密な積乱雲。にわかに空気の色を変え響く雷鳴。土砂降りの雨。一陣の風をおいて、去って。アスファルトのにおいが立ちこめる、濡れたサンダルはもう乾いて、歩く、どこへもつづくような道を歩いて、帰る。なにもが過不足なくそこにあって、ただあるだけ。あなたもわたしも消えて、夏。わたしはあのひとの、夏になりたい。

ふみにじる

冬になり、春が来て、夏にとける。たかい日は影を焼きつけてまっすぐ去っていったし、秋は長く、ただ長いだけで世界を蹂躙したんだ。失われた機能を再構築することに専念しているうちにわたしは死ぬ。また来た冬はいくつかの冬の総集編で、最後の冬になるし春。ああ冷たく激しい春。生まれたての憎悪がまじりけないさまでたやすくすべてを裏返すよ。優良な劣等感でも救っていろ軽率ね。うねる前髪からのぞく黒い目は見ない。見ないものは存在しないからわたしはいない。はなからすべてを手にいれたような抱きかたで正しく踏み躙って孤独と自尊心。いち、にい、さんって言ってそれから。なにを祈っているか教えてあげようか。それから指先を噛む。濡れた歯形が縫い目みたいに並んでひかる。消えて。薄い闇はいつも均一に降ってきては視界を平らにする。ここは、ここはどこ。後部座席からは100メートル先の自動販売機が見えていて、そこにいる人たちの話し声が耳もとで聞こえている。薄い闇はいつも等速でやってきては心を轢き殺す。そこは日没直後の博多埠頭。光は射さないけれどほんとうの闇は永遠に来ないし薄い闇が晴れることはない。そう信じるには十分過ぎるほどの証拠が揃っている。1秒生きたら1秒苦しんでおまけに絶望のもう1秒。鼠算式にふえてゆく不透明で幸福じみた偽の言葉。だれの言葉。黙りこんでいればかつて無言に踏み躙られた小さな泣き顔は消えるの。それならいいよ。裏返った時間は拵えものの愛みたいにつまさきに引っ掛かってあなたの魂はサンダルウッドの匂いがして

日々

どうでもいいことが日々の大半になる。だれかの日記の8ページ目に書いてあるようなことが鼻先にぶら下がって腐っている。話したいことなんて本当はないよ。生まれた時から。どうでもいいことだけを言い尽くしたせいで舌は腫れて夜はもう暖かい。驚きはしない。くしゃみを一つして薄荷のあめを舐める。耳の縁を甘い舌でなぞって頬を湿らせ歯の裏に辿りつくころには死んでいる。腕を伸ばしてみても灰色の指先はどこへも届かない。ほらみて

咲く花の

桜がすべての春をこぼしている。あのときあのひとのとなりを歩いたその道に影を落とした。満ちたりた淡い赤に混ざる空の青と漏れる光。きらきらして、それはもうほんとうにきらきらとしていて風は冷たく繋いだ手からこぼれそうなものこぼれずにそこにあっただけで希望を失うほどうつくしくすべてを去らせるほど命を惑わせた。最後の春が来たとつぶやくくちびるは青く霞んでもうとおく旋律の要求に従いわずかにおよぐ。ゆめみたいにあてもない醜悪なやりとりと言い訳がひとごとのように目の前でくりかえされている。閉め切られた窓を叩くものが手でも銃弾でも花弁でもうつろうあのひとにはおなじだろう。だけどできるなら。いつか開かれるかもしれない窓のそばにはみえる愛を残していきたい。どうかやすらかに生きてと乞い願うわたしは命を浪費するだけの役立たずだ弱虫。ゆるされないだれにも。